三島由紀夫「青の時代」を読む。

青の時代 (新潮文庫)

青の時代 (新潮文庫)

面白かった。三島自身としては、「資料の発酵を待たずに、集めるそばから小説に使った軽率さは、今更誰のせいにもできないが、残念なことである。文体もまた粗雑であり、時には俗悪に堕している。構成は尻すぼまりである」と評しているようだが、熟考せずに荒いスケッチのような作品でも、もともとの画力がある人の作品は楽しめる。読むまで知らなかったが、戦後の昭和に起きた「光クラブ事件」を題材に、社長の山崎晃嗣をモデルにした物語。自意識過剰な主人公の悲哀を楽しむという点では「地下室の手記」とかと似た系統の小説かも。

結構笑ってしまうような描写が多く、例えば主人公の誠が一高に入学してから聴く先輩の寮長の演説を聞く場面では、その話しぶりをして「そのユーモアの皆無なことは、人を笑わせたら地獄へ落ちるとでも信じているようであった」なんて評していて面白い。しかもそのあと、この人は汗を拭く手ぬぐいで机の上を拭き始め、それについた埃が再度額を拭った時についてしまうという間抜けぶり。そして、こういう間抜けな習慣が知らず知らず主人公にも受け継がれてしまっており、好きな子が出来たバーにひとりで行って、緊張して手ぬぐいで机を拭きながら、相手の本名をしつこく聴き続けるという野暮というか暴挙に出たりする。女性へのアプローチの下手さは自分も現役で下手だし一概に笑えないのだが、それでも身につまされる感じが多い。すごく独りよがりで、女性との恋の成就をきちんと段取りを決めて一つ一つクリアしていこうという手続きの不毛さとかね。
他にも、後に親友となり共に闇金会社を設立する愛宕との出会いの際、「自分がまったく軽率に、後先を考えずに笑ったと思わせたかった」という描写にあるような、人に馬鹿にされず、どう見せるかをコントロールしたいという非常に見栄っ張りな精神もなかなか哀れでいい味を出している。そして世間知らずな若造が自分が騙されたことをきっかけに初めて社会に対して会社を起こし、金融というアプローチで迫っていくときの社会観が面白い。「社会というものが、はじめて彼にはなまなましい実態として感じられた。この無形の実在、不機嫌そうに黙っているこの巨大な暗黒の動物、それが壁一重」むこうにとぐろをまいているように思われる。それは脈を博ち、喰い、呑み、恋をし、眠るのである。これに対して人間は無力で、多くは勤め人になって隷従するか、商人になって媚を売るかである。」うーむ、確かに。

また、彼の提唱する数量刑法学というのも面白い。「誠のいわゆる唯物論と唯心論との総合とは、まず人間生活の物質面と精神面を截然と分かつところから出発する。物質面、つまり主として経済学の支配する領域へは、幸福の観念を絶対に導入しない。それどいうのも主観的幸福を犯さないためである。(略)そこには近代私法の根本原則である契約自由の原則があるだけで、合意は拘束さるべく、非合意は放置される。」「唯物論が経済学的に処理した幸福の問題を、精神的に処理するというと、早呑込みの人は誠が神を信じていると思うであろうが、彼が信じているのは彼流に考えられた理性であり、理性の作品である法律であった。」「誠はどんな理想社会にも犯罪が起こることを前提して、もし犯罪が全く起こっていない時には、とにもかくにもその社会に主観的幸福の平等が支配しているものと考えた。これはまた、主観的不幸の平等と言い換えても良い。(略)近代法は犯罪を非常の事態と見、犯罪なき日常生活を常態と見るのであるが、誠の刑法は、犯罪を常態と見て、この積極的解決によって日常生活の幸福の平等化はかろうとするのである。のちに彼自身これを数量刑法学と名づけたように、誠は刑法にあたって、あらゆる物質的損害と精神的損害を同一尺度で計量するために、あらかじめ人間感情を数十の要素に分類し、これにいちいち原子量のような数量を与え、ある事件に対する各人の精神的反応はすべてこの数十の要素の結合につきる、とした。裁判は対審を持って行われる。彼に言わせると、数量刑法学は、情状酌量、期待可能性の理論、違法性粗却原由、正当防衛、緊急避難などの例外的な減刑事由に統一を与え、これらを体系化することによって、われわれが社会と法律を通じてつかんでいるつもりでいる「現実」の意識を変革するものであった」という。「合理的に」をモットーとしていた実際の山崎が提唱していたとのことだが、フィージビリティは専門家でないのでわからないが、確かに聞いていて面白そうだなと思う法のありかただ。犯罪をただの行為として捉え、属人性や道徳性を排して客観的に裁くというのは合理的に聞こえるし、ちょっと掘り下げてみたいなーという興味にかられた。