最終日のフランシス・ベーコン展に行ってきた。

フランシス・ベイコン 磔刑―暴力的な現実にたいする新しい見方 (作品とコンテクスト)

フランシス・ベイコン 磔刑―暴力的な現実にたいする新しい見方 (作品とコンテクスト)

  • 作者: イェルクツィンマーマン,J¨org Zimmermann,五十嵐蕗子,五十嵐賢一
  • 出版社/メーカー: 三元社
  • 発売日: 2006/03/01
  • メディア: 単行本
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良かった。平衡感覚を揺さぶられるような感覚。最初は友達を誘って行こうかと思ってたけど、独りで行って、本気で向き合う選択をしたのは正しかった。90分くらいかけて展覧会をじっくり味わうことができた。

作品は基本的には年代別に、ベーコンの画風をある程度テーマに分けて展開していく。途中にインタビュー映像やアトリエの紹介なんかを挟みつつ、最後の方で、ベーコンの作品にインスパイアされた土方巽の舞踏映像や、現代の舞踏家の映像も見られる。

まず、ベーコンは結構描きたい対象が変化していった人なんだなぁと思った。初期の暗い画面に、直線ではめ込まれて狭い空間に閉じ込められたような人物像や、大きく口を開け、椅子に括りつけられたような教皇像。これらは、それ以降の作品群に比べ、「視る」ことに注力を置いているように思える。これらの画面は、雑に記せば「笑うせえるすまん」で異世界に飛ばされた主人公の末路を描いた場面を想起させるような、物語的で解釈しやすい画面であるように思う。
ベーコンは額装する際、ガラスをはめ込むことを好んだという。その方が、「対象を遠ざけることができる」からだという。確かにそう感じる。わかりやすく、こちら側の世界とあちら側の世界を区切ることができるし、作品は「見世物」という感が強い。象徴的で、寓話的でもある。
しかし、時代を下るに連れ、恐らく彼は視ることを信じなくなってきているのではないだろうか。視るということは、目という感覚器官に統べられ、従うことになる。彼は対象を捉えるために、絵画というアートフォームにも関わらず、自分の目を疑い、理性で対象を制御しようとせずにキャンバスに向かって苦心していたことと思う。アントナン・アルトーニーチェの問題圏にも通じているんじゃないかと思うが、「生(もしくは、より純粋な「力」)」をキャンバスに塗り込めようとしているように感じた。
中期になると、彼は身近な人の顔を3連作のような形で描いていく。
ベーコンの作品を特徴づけるような、あの捻れた表情だ。そこには初期のような物語が見られない。顔という、人間を識別するうえで最も判別しやすい部位で器官が持つエネルギーを、彼は自由にキャンバスに叩きつけているように感じる。もちろん彼は目で対象を見ているが、視界から得た情報をそのまま構築しようとはしない。彼が感覚しようとしているのはその先の領域のように見える。
ちなみに、ベーコンは、プラズマや霊現象に興味を持ち研究していたらしい。やはり、感覚できない領域のものを何とか触れようとしているように見える。
後期になるとベーコンは、中期の顔のみならず、3連作を多数作成することになる。そこには、初期に現れていたような人間のそのままの表情や物語、要は「意味」を捉えるとっかかりが薄くなっている。ぶっきらぼうに言うとよくわからん絵になっていく。人は人として描かれず、肉の塊のようなものとして、それが画面にごろりと投げ出される。手や足や頭がそれぞれの位置に配置されているわけでもなく、あるいはよじれ、あるいは視点がどこにあるのわからないようなものが描かれている。そして、彼(等)はほとんどの場合独りである。同じ画面に3人ほどの人が描かれる作品もあったが、3人は何かしら関係しているわけではない。断絶している。
そして死の間際の作品になると、彼は時間だけでなく、絵を構成する三次元の秩序すら解体し、絵の中に絵が浮かぶような、異世界と観客をの領域に片足を突っ込むような、抽象画でもない、具象画でもない、異次元の空間を創り出している。質の良いSF作品が丹念に織り上げた異世界観を、説明なしに一瞬で「体感」させるような力を持つ作品だと思う。

この平衡感覚を失うような経験をベーコンは「アーティストは感情のバルブを外すことができるんだ。絵を眺めている人たちを、無理やりにでも生にたち戻させることができるんだよ」と語る。うーむ、確かに。

以上、自分なりの思考メモ。