黒瀬陽平「情報社会の情念」を読む。

情報社会の情念 クリエイティブの条件を問う (NHKブックス)

情報社会の情念 クリエイティブの条件を問う (NHKブックス)

コンテンツよりもアーキテクチャだ!みたいな議論はあまり好きじゃなくて、コンテンツの力でアーキテクチャ自体を変えてしまうくらいのコンテンツを受容していきたいなぁとか思ってて、その辺の考えについて整理できるかな、と思って読んでみた。読んでみて、著者の言いたいことはわかるけど、著者自身が触れているとおり論理が飛躍しすぎている感がちょっと強かった。取り上げる例もちょっと特殊だし、それに対する解釈も結構強引な気がする。
ソーシャルゲームにおいて最もクリエイティブが注ぎ込まれているのは、「ユーザーにゲームを始めてもらう」ための方法ではなく、「ユーザーにゲームをやめさせない」ためのシステムなのである。〜略〜そのシステムはインターフェースの背後で、常に膨大な行動情報と格闘するデータマイニングによって運営されているのだ。」っていう一文は最近のソシャゲの設計思想を端的にまとめていて面白いと思った。こうやってアーキテクチャで人間を動物的に囲って管理しようとするってのは「動物化するポストモダン」的な議論と繋がってるなーと思った。実際、こういう現場においてはゲームの作者はイラストレーターやゲームデザイナーではなく、プラットフォームの設計者なのだと納得。
また、「無制限なフィルタリングによって過剰にパーソナライズされたネット空間では、みんなが同じように見ている「客観的な世界」は存在しない。したがって、そこにあるのは、それぞれの個人にとって都合がよいようにフィルタリングされた、バラバラの小さな世界の集合である」という一文については、以前親戚と話していて、「ネットの情報って右寄りばっかじゃない?」と言われたことを思い出した。俺にとってネットはそんな情報は多くないが、彼が触れる環境では多いのだろう。お互いがそれぞれ違うネット世界に触れているのだ。イーライ・パリサーという人はこう言ってるらしい。「パーソナライズされた環境は自分が抱いている疑問の解答を探すには便利だが、視野に入ってもいない疑問や課題を提示してはくれない。ここからは、パブロ・ピカソの有名な言葉が思い出される。「コンピュータは役立たずだ。答えしか与えてくれない」。
かといって、時に快適だけではない、目を背けたくなるような「偶然」をプラットフォームに盛り込むのは容易ではない。ランダムに提示される「偶然」をプラットフォームが配達してくるとなると、それはもう「偶然」ではなくなってしまう。プラットフォーム自身が予期できない「偶然」でない限り。そんな状況でコンテンツの方からクリエイティビティをプラットフォームから揺れ戻すように登場してきたのが、「らき☆すた」のような、コンテンツを消費するユーザーたちのコミュニーケションを喚起するような作品だった。
そして、「運営の思想」と「制作の思想」を乗り越えるためのアーティストの仕事として、寺山修司岡本太郎を参照する。寺山は「「舞台」の上に人々が散らばり、それぞれがバラバラに動いているにも関わらず、全体としてはそれらが相互作用を起こし、創発しているように見える演劇」として「市街劇」を作った。「「劇場」という制度を放棄し、演者と観客という二元論を解体し、民主主義的なプロセスによって作られる演劇を志向する」。かといって、「あらかじめ「偶然の出会いを組織しよう」として起こすような出会いは、後の定義上、偶然ではない」が、寺山が作ろうとした思考は今のアーキテクチャ先行の環境を分析するうえで参考になるかもしれない。
…とまぁこのへんまでは納得できたんだけど、そのあとの岡本太郎の万博の仕事の分析についてはあんまりピンとこなかったなぁ。要するに、「見たくなくて除外されてきたものを表現した」ということを言うために太陽の塔の構造とか万博の展示の説明をするんだけど、飛躍しすぎというか、「創発」の実践としての説明は寺山の方が面白かった。そして、何より、現代の環境の中で、その創発を起こすためにはどんな試みがあるかをもうちょっと具体的に書いて欲しかったなぁと思う。
最後にハンター・ハンターのアルカの能力を原子力のメタファーであり、クリエイターたちは過去の情念をイタコみたいにキャラクターに吹き込んで創作をすべし、というようにして締めてるんだけど、なんか脇にそれちゃった感じがある。