イスラーム国の衝撃」を読む。

イスラーム国の衝撃 (文春新書)

イスラーム国の衝撃 (文春新書)

山形浩生がcakesで推薦していたので読んでみた。著者の池内恵は今のタイミングで新書で出しておきたいと考えて本書を書いたみたいで、漠然としかわかっていなかったイスラーム国のことに関して少し整理ができた。
メモしたところをいくつかまとめて引用しておく。
アル・カーイダの中枢・本体は、いわば「フランチャイズ」の支部を認証する権限を持つ「本部」の機能を持つようになった。アル・カーイダという店名や商標の「暖簾分け」を許可あるいは拒否する権限を持つ「本店」「本舗」のような立場になったとも言えよう」
理念やモデルだけを共有し、指揮命令系統によっては連携しない現在の武装・テロ組織はこのように分類されているという。その中でも『』「イスラーム国」は、領域支配を行う「国家」を強調し、「カリフ」という究極のシンボルを使用した、アル・カーイダ系諸組織の「再ブランド化」の新たな試みとも言える」そうだ。
また、その組織理論としてアブー・ムスアブ・アッ=スーリーという人物が著したグローバル・ジハードの理論は「個別ジハード」を提唱しているという。その内容は、「全世界で総力を挙げて「対テロ」戦争を行う米国の軍事力や諜報・警察力に対して、ジハード戦士側が秘密組織に結集して立ち向かうのは得策ではない。むしろジハード戦士たちは分散化し、組織を最小化し、組織間のつながりも極力減らしていくことで、対テロ戦争の追及を逃れることができる。ジハード戦士たちがそれぞれ個別の場所で、小規模の、しかし象徴的に人目を惹くテロを行っていくことによって、グローバルなジハード運動が「現象として」成立する」という。国際社会の秩序を乱す迷惑な話だが、彼らの側からしたら確かに効果的な戦法だと思える。しかも、現在のイスラーム国とアル・カーイダは決して友好的な関係でもなく、袂を分かったらしい。
また、彼らの資金力は「①支配地域での人質略取による身代金の強奪、②石油密輸業者などシリアやイラクの地元経済・地下経済からの貢納の徴収、といった「略奪経済」の域を超えない」という。だからこそ、彼らを経済的に締め揚げることは短絡的にうまく行かないという。
また、組織の構成員たちについては「イラクやシリアの個々の場面では、経済的な貧困に知的な貧困も加わって、安易な気持ちでジハードの理念を振りかざしているとしか見えない事例もあるだろう。紛争が常態化した環境では、爆発物や機関銃の扱いにばかり秀でた「ならず者」こそが、集団の中で頼られる≪エリート≫になってしまう。(略)しかしここで重要なのが、実態としては、考えの浅い粗暴な人間が多く集まっているだけだとしても、その集団と行為を正当とみなすジハードの理念が、共同主観として依存し、広く信じられていることだ」という。一枚岩で切り捨てることはできないのはもちろん、イスラーム教が公式に認めている価値観で成り立ってしまっているのがイスラーム国なのだ。それは屁理屈でも異端でもなく、どうしようもなく現在の国際政治(突き詰めてしまえば西洋的な価値観)の価値観から逸脱してしまっている。だからこそ、彼らは例え自国の政権であっても、イスラーム法的にあってはならない西洋的な枠組みでムスリムを押さえつけるような穏健派は打倒しても構わない、ジハードの対象として認識されてしまうのだという。
キリスト教では、「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」と政治と宗教の分離が定められ、ユダヤ教では、異教徒に支配されている状態を正常ととらえ、終末の日に正義がなされることが待望される。それに対して、イスラーム教は、ムハンマドが、(略)統治や軍事を行って、神の法を施行する側に立って発展していった。」ため、政治と宗教が結合しているのが特徴である。これも問題をややこしくしている特徴だと思う。「西洋諸国が「イスラーム国」に強い関心を寄せ、国際政治の大問題として扱うのは、自らの社会の中に賛同者が一定数おり、実際に参加し、そして将来に帰還して社会を揺るがす可能性があるからだ」という。
それに対し、日本での需要のされ方は、「イスラームを理想化し、それを「アメリカ中心のグローバリズム」への正当な対抗勢力として、あるいは「西洋近代の限界」を超越するための代替肢として対置される。「イスラーム」という語が、現代社会の解決不能な諸問題を、一言で解決する魔術的なパワーを秘めたものとして、テキストや現実の事象を踏まえずに用いられているのである。(略)要するに、日本において「イスラーム」は、「ラディカル」に現状超越を主張し、気に入らない社会やエスタブリッシュメント、そして体制そのものを勇ましく「全否定」してみせる「依代」として一部で受け入れられてきたのである」。うーむ、確かにその一面があることは否定できないと思う。これまでの左翼イデオロギーやカルト宗教に取り込まれていた一定層に同様の需要のされ方をされている感じはある。
しかも厄介なことに、それらはある種時代の流行りとして生まれてきた依代かもしれないが、イスラームに関してはもう世界中で認められ千年以上続く世界宗教なのだ。「「イスラーム国」は、独自のイスラーム思想を打ち出してるとは言えない。「異教徒による支配を廃絶しなければならない」「イスラーム法に反した統治体制は不法である」「アッラーの下した啓示の法に従って統治しない支配者は、イスラーム教徒であっても不信人の徒に等しく、ジハードで討伐しなければならない」といった、過去に多くの思想家によって提起されてきた主張を「イスラーム国」もまた共有している」のだ。だからこそ、「過激思想に強く賛同しない市民は多くいる。人数から言えば、そちらが多数派だろう。しかし過激思想を適切に論駁する論法も尽きている。イスラーム教を共通の典拠とする以上は、穏健な解釈と過激な解釈は、どこまでいっても「見解の相違」として平行線を辿る」ことになる。さらにはついに、国際社会ではほぼ禁忌の制度となった奴隷制すら容認し始めているのだ。「不信仰者の家族を奴隷とし、その女たちを妾とすることは、堅固に確立されたシャリーアの側面なのだということを忘れてはならない。もしこのことを否定したり嘲ったりするのであれば、「コーラン」の章句と予言者のハディースを否定したり嘲ったりしていることになる。それはイスラーム教からの背教である。」と自身の広報誌に載せている事態なのだ。著者はさすがにこの結論に対し、イスラーム世界にも宗教改革が求められる時期なのではないか、と提案している。
今起きている事象に対して、納得できる言葉で説明されており、読み易くわかりやすかった。名著だと思う。