この本を読んでよかった。つき物が落ちたような感覚だ。

哲学の道場 (ちくま新書)

哲学の道場 (ちくま新書)

中島義道哲学の道場。
予想通りのことを言ってくれている。俺には哲学のセンスも自分の言葉を磨き上げる訓練も根性も経済的な環境も全くない。今後、古典的な哲学書は俺には読む必要はないし、読めない。
自分が頭がいいとどこかで思ってる人間は哲学を語りたがる気がする。俺も中二病的な感覚からそう漠然と思っては否定し、自分よりはるかに鋭利な感覚を持った人たちの考えに触れては才能のなさに絶望し、かといって思考すること自体を停止して「楽に生きよう」とする周囲の人間を軽蔑し、何かにすがりたくて、でも宗教のような「答え」を期待せず、自分の生きているこの現場について知りたい、知を愛するというか知的好奇心だけは持っていると自負してかろうじて生きていた。
以前、「思想なんかいらない生活」勢古浩爾を読んだときは、くだらないなと思った。この人は思想によって何か現世的なご利益を求めている。難解な思想を解きほぐせば、真理というものに少しでも近づければ、この世界に対する見方が変わり、すごい人間になれるという期待を持って哲学書を読み進めていたが、いつまでたっても「視界が開けた」感覚(アハ体験?)が得られないので、一転していままでありがたがってたものを「酸っぱい葡萄」のように扱うことでメシのタネにしようじゃないかという。この当時から、思考を深めることは生産的じゃないんだろうとは漠然と思っていた。仲正昌樹の「お金に正しさはあるのか」でも似たような問題意識を扱っているが、学問はそもそも金にならないし、得でもないし、むしろ反社会的なものを内蔵している。おそらくフーコーが権力の内容をつぶさに分析したことはイコール権力を批判することにつながっているんだと思うが、(特に人文系の)研究者は社会の前提条件を洗う作業で給料もらえるのだから逆に不自然なくらいだ。本書でも回想話としてそういうくだりがあるが。
それでも心のどこかでしがみついてる俺に、だからこそ「哲学」に向いてないんだよ!と言って貰いたかったというのはある。これは俺の恐れていた救いかもしれない。でも、本書で解説されるカントは、想像してたとおり恐ろしく難解で、著者のおそらく丁寧な解説ですら投げ出したくなるほどだ。言葉の定義を厳密にし、執拗に哲学する「前提条件」の足場を踏みならしていくだけで、すでに頭が痛いし、簡単に言うと俺の問題意識はそういう時点にないのだとわかる。おそらく少しでも論理学を学んだ人から見たりしたら、俺の文章はお世辞抜きに「非論理的」なものだし、書き表すのもヘタなら考えてることも実は深刻ではないということも理解してはいるつもりだが、こんな俺でさえ周囲の人間からは「理屈のかたまり」であり「テツガクしてる人」というような評価を受けることだってある。大いに間違ってるから、俺はそういうたびにそれを哲学的な人の名前や権威を使って否定するが、その語り自体が既に一般人からしたら相当哲学的なのだ、残念ながら。一般人はニーチェが何考えてたなんて興味ないし、そのほんの断片を知ってる時点で俺は「あちら側の人」に分類される。そして始末が悪いことに、ごくたまにだがその立ち居地が居心地が良かったりするのだ。頭がいい人、とは見られたくないし頼りにもされたくないが、深いこと考えてそうな人、という曖昧なポジションのお陰で俺よりもう少し馬鹿そうな人から尊敬されたり、何より俺の口下手にうまい解釈をしてくれるのである。
しかし、中島義道横光利一やトマス・マンの作品を挙げて指摘するとおり、俺のような一見哲学に見える「マガイモノ」こそ一番哲学の現場から遠い。
俺は自分の頭で考えてない。自分の前提条件を洗う作業をしない。
ほとんど人の受け売りであって、たまにこねくり回すマネをしてみるが、おそらく筋道も立てず言葉の使い方も粗過ぎて到底思索しているとは言えないレベルであろう。要するに雑念であって、「若い頃はそんなもんさ」と嫌悪すべき大人に飲み屋で言われてしまうような平凡なものである。
これを認めているつもりでも、なかなか実践はできない。ここに書くことも実践ではない。実践とは、「俺が何も出来ない、知らない」ということを公開していくことだと思う。ここに山月記の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を超え太らせた俺の弱さがある。ここを変革していくにはどういう手法があるのだろうか?知らない、知りたいことを素直に聞くという、普通の人が当たり前に出来ることが出来ず、かといって山月記の主人公のような元からの才能もない。でも、その無い環境から思考して自分を形成していかなければならない。ここは大きなタームポイントになるはずだが、俺の中ではまだまだ出来ていない。感覚的にいうと、無知をさらだしデトックスしてスッキリしたいのだ。これも危ういだろうか?
思えば今年から結構「友人を誘って遊びに行く」ことが増えた。ライブにいったり、旅行にいったり、飲み会を開いたり、舞台に誘ったり。あるモノを気になってから体験するまでのスピードを上げたいと思ったし、回りの人を巻き込んで生きたいという思いを若干実践し始めたのである。というのも、周りは俺を誤解してるなぁと思うことが割りと我慢ならなくなってきたからというものもある。集団内で俺の落としどころに困ってる感じは今まで割りと見られたが、なんとなく馬鹿なのがばれるのも嫌なのでミステリアスなキャラで売ってきた。不思議ちゃんに近いかも知れないが割りと仕事出来そうな人でもあるからいじられキャラにはしにくいし、冗談をいったりサービス精神のある人でもないし、無口で好きなことに関しては物知ってそう、というイメージが漠然とした「知人レベル」の人からの評価だったんじゃないかと思われる。
まあ口下手というのがやはり大きなポイントになってるんだが。言いたい事がいえず、誤解されても何て返そうかと必死で顔もひきつってうまく話せなくてタイミングを逸してしまい、いつも後悔しているという。三島由紀夫の「金閣寺」の主人公は吃音に悩まされているが、「うまく話せない」という他者との隔たりに共感してしまったのはこういう意味だ。そして、俺が必死に言葉を探して話したはずなのに相手が覚えてないということも大いに傷つけられる。自己アピールがヘタでコミュニケーションがヘタ。それでもいいと半分思いつつ、もっと積極的に世界に関わりたいという。というのも昨日の高校の友人たちや先生を囲んだ飲み会で久しぶりにつまらなさを感じたのだ。気になること、聞いてみたいことはたくさんあるのに、失礼かも、とかタイミングを見計らってほとんど何にも話しかけられず、典型的な「もくもくと食べてるだけの人」になってしまった。終わってから行った久喜のさくらというラーメンも微妙で久々に落ち込んだ。
本書の話とつながりが見えにくくなってきたが、要するに煙に巻いたままの居心地よりも、ばれちゃった方が結局楽しいんじゃないとというタームにきているのだ。哲学なんて俺に向いてないのだ。ムツカシイこと考えてる振りはよそう。
というより、結構それもばれてるんじゃないかとも思う。特にやる気の無かったゼミの研究に対する先生の突っ込みは厳しかった。ある程度覚悟してたけど、改めて自分が「普通以下の生徒」であるということを突きつけられたいい経験だったように思う。
もちろん逆に興味の赴くところは知的好奇心はあるけど、そういう問題意識をもっとオープンにさらしていけたらいいんじゃないかと思う。大体俺は社会哲学的な部分に関心がある臭いなーというのがこれまでの経験でうっすら分かってきた部分である。自己や時間に関する問題にはあまりピンと来ない。美の問題や心理の問題も違うようだ。物語論やレトリックの問題はある程度関心があるが、割と別の次元だという気もする。まぁ、「いかにして社会は可能か」という点が今のところ俺の問題意識に近いところなんだと思う。そういった意味で、ルーマンの社会システム論をちょっとでもかじったことはいい刺激になったんじゃないかと思う。
興味のない議論を読み込もうとするより、例えば頭に汗かいて論理哲学論考を読むよりラーメン食べ歩いたりピューと吹くジャガーを読んでる方が俺のためになるんだと思う。

いろいろ浅い頭で考えてふと気づくと、渋澤龍彦の「快楽主義の哲学」の読後感に近いと思った。快楽に生きれる状況を作り出せた人は幸せだ。確かに哲学という病は人を不幸にする。まあ、いろいろな寄り道が無駄だったとは思わない。「迷った道が、私の道です」なんてCMもあったな。今後は「理解できるようになりたい」的な変な期待はせず哲学とはある程度距離をおいて生きていこうとは思うが、これは著者があとがきで語っていることでもある。
生半可な人は諦めた方が確実にいいのだろう。俺なりに生きていることや社会があることの絶対的な不思議さを問い詰めていければいいのだと思う。