ついに読み終えた「赤灯えれじい」。

赤灯えれじい(15) <完> (ヤンマガKCスペシャル)

赤灯えれじい(15) <完> (ヤンマガKCスペシャル)

やはりこの作品の肝は圧倒的なリアリティにあるだろう。基本的にはサトシとチーコの二人がひっついたり離れたりする恋愛模様を楽しむものであるが、仕事探しから家族との付き合い、職場での成長など「自立」していく過程としても読むことが出来る。また、二人とも旅に出る描写が多いため、細かい地名が随所に出てきてロードムービーのような楽しさも内包していてより楽しめる。
15巻で一応一区切りつく形となるが、仕事も無くしてしまったりで二人の物語はまだまだ前途多難だ。それでも二人がお互いを心の拠り所にすることでかえって自立していくことが出来ることを実感できているというのは、人間にとってとても重要なことなのだろう。最終話のチーコの事故で、サトシがもっと自分を頼ってくれと言い、チーコが「とっくに頼りにしてるわ、ボケ」というように返すが非常に良いラストだと思えた。
ああ、それにしてもこういう甘酸っぱいけれど、おそらく人間の成長に不可欠な「他者からの承認」される経験がいい年こいて今まで無かったことが悲しい。おそらく俺の人生にはなかったというだけだが、割り切るのは大変だ。

俺ってちゃんと結婚できるのかなぁ。結婚に対する圧力は確かに弱まってはいるが、自分の属する家庭や子孫を残せずこの世から消えていくことを考えるとやるせない。それには「人を頼ること」から始めないといけないけど、強さを求められる現代では相反している態度であって、やはり恋愛って反社会的行為だなと思わされる。そして現状、芸術や学問もふくめ法律や経済などほとんどの社会システムが理性的に運営されてる中で、ほとんど唯一結婚という制度に関しては、恋愛という感情的で狂気を内包した個人の意思によって運営されているという奇妙な状況があると思う。
「恋はするものではなく落ちるもの」だと思う。結局、理性で制御できない部分で惹かれてしまうというのが恋愛の醍醐味ではある。暴力振るったり嘘つくようなどんな駄目人間であっても、だからこそ愛しいことはある。経済的・社会的な地位の高さと恋愛対象としての魅力はイコールで結びつかない。「わがままな性格がなおさら愛しくさせた」と山崎まさよしも歌ってるし。では恋に落ちたいのに落ちれないのはどうしたらいいんだろか。自分にとって不確定なファクターに身を任せたいという甘えか?ヒッキーの歌詞にある「予期せぬ愛に自由奪われたい」のは怠惰な態度かもしれないが、それだけ甘美なものに思える。

だがしかし、先日板橋本町の徳栄という中華料理屋の「豚肉とにんにく芽の炒め物」は俺に恋させた。一口ほおばった瞬間「うまっ!」って言いそうになったよ。絶妙な甘い味付けとご飯が合い過ぎる。こういう電撃走るような出会いは恋愛以外の分野でおきちゃってんだな…。