まずは遅々として進まなかったボードレール「巴里の憂鬱」。

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

もうこれはほとんど三好達治氏の作品といってもいいんじゃなかろうか。かなり癖のあるというか豊富な日本語の語彙を駆使してボードレールのテキストを再構築してるんだけど、読みにくい。何いってんだか良くわかんない。確かに感覚的に面白い表現は多いんだけど、頭にこびりつくようなフレーズというより衒学的というか煙にまかれてしまってるイメージだ。いろんな詩があるんだけど、あまりぱっとしなかった、正直。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない」何て聞くし、さぞかし磨きこまれた宝石のような一行一行が詰まってるのかと思ったけど、思ったより作品世界に入り込めなかった。有名なガラス売りの話とかを確認できたのは面白かったけど、それは寓話的な面白さであって、詩という言語表現の極北を体感するような面白さではなかった。「貧民を撲殺せよ」とか巴里のお祭りの話とか、貧乏人にスポットを当てた話が多いけど「弱者に共感する」感情をフックにしたお話って俺の中で詩的表現に求めてない要素なんだよなぁ。外山滋比古が西洋の伝統的な詩が韻律や構造を重視した建築的な言語表現をする傾向にあるのに対して、日本の詩の形態がどんどん短く音や空間の面白さを追求していった結果俳句のような世界的に異例な短さの表現形態が生まれたというような考察をしてたけど、俺としてもこういう言語表現を味わってみたいというのがすごくある。
要するにより短くより印象的で豊富なイメージを生み出す方向にあるのが詩なんだと思ってて、なくはないけどボードレールにそういう要素を求めるべきじゃないのかなーと思った。後、西洋人の一般的な教養であるギリシア神話の知識がないと味わいづらい作品とかは厳しい。詩を味わう前段階で損してる気がしてしまう。まあ読者の体力不足と言えるだろうけど、「哲学の道場」で感じたとおり、全身全霊を掲げないと楽しめない読書はもういいやって気分。
今後もっと有名な「悪の華」を読む気になるかなー。

昨日は渋谷no style行ってきた。音自体は予想通りな展開で満足。ただ、もうオールナイトのイベントが精神的にも体力的にきつくなってきた。早く帰りたいなーと思わないイベントに行きたい。

んで、来週のDJ用に最近またレコードをちょいちょい買い始めてるが、既にレコードというメディアに未来がないのは明白な中、限られた金を投資することにすごく抵抗があって、恐る恐る買ってる。

soulphiction[state of euphoria]

State of Euphoria [12 inch Analog]

State of Euphoria [12 inch Analog]

massive attack VS mad professor [no protection]

No Protection

No Protection

この二枚を購入。でも、どっちもMP3では持ってんだよね。両方とも大好きなアルバムだから買ってしまったが…。
確かにレコードの針を落とすドキdキはCDプレーヤーでは味わえないし、欲しいことは欲しいレコードもたくさんあるわけだが、まだ俺の中で整理できてなない。今後の音楽とのかかわり方ともかぶってくる部分だけど、DJよりはトラック製作に力を入れていこうかなーと思う。そろそろ俺の中で創作意欲が高まってて、いろんな曲聴いてても「これどうやってこの音だしてんだろう」とか「どうやったら再現できるだろう」とか考えながら聴くことが多くなっていて、自分で音を鳴らしてみたい欲求の方がDJ表現より魅力的になりつつある。なにしろ選曲するだけでDJという物語を展開していくことはある程度可能だけど、レコードというメディアに狂信的な愛着があるわけでもないし、無理して「CD使ってるやつはワックだぜ!」と言い辛くなりつつある。俺にとっての音楽の面白さってそういう部分にないんだろうな、やっぱ。だからブートのレコードも買っちゃうし、そういうこだわりに金割いてもなぁ、と思ってしまう。「金を使うことが音楽業界やアーティストへの投資」と考える人もいるけど、何か消費者としてそーいうの考えながら音楽を味わいたくはないし、何より中古で買うことが多いから直接的な投資になりえてないということもある。
今後は名盤以外はレコードで買わないっていう縛りを自分に課していこうかな…。音楽による「ドキドキ・ワクワク感」を買いたいのだ。「レコード」が買いたいわけじゃない。ライブだろうとネットに落ちてる音源だろうとあまり構わない。それよりも聴いた瞬間に「毛穴が開くような、ぞわっとするような」体験を求めてディグを続ける毎日だ。