シャーリーズ・セロン主演の「モンスター」を観る。

モンスター プレミアム・エディション [DVD]

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リアルな描写に戦慄。90年初頭のアメリカで実在した元娼婦の連続殺人犯、アイリーン・ウォーノスが片割れのセルビー(実名はティリア・ムーアというらしい)のために殺人を繰り返すという話。

シャーリーズ・セロンの存在感が凄まじい。役作りというと大抵は体を絞ったり筋肉をつけたりと健康的なことが多いと思うが、ここまでだらしない体と風貌を身につけたプロ意識はすごい。そして、それが役作りなんかではなく、あたかもすべての人生をそう生きてきたと思わせるほどの粗野な振る舞いと人間に対する憎悪と、決してサイコパスではない優しさを持ち合わせた不器用な表情。そこらへんの娼婦を実際にスカウトしてきたみたいだ。
しかし、彼女のような人間に、罪を犯し死刑になるという人生以外の選択肢はなかったのだろうか。作中でアイリーンは自分のやってることが許せないと泣きながらセルビーに赦しを乞うようにもたれかかる。それでも、彼女には方法がないという。彼女は生きる術を知っている。人から奪うこと。でもそれが多くの人を悲しませることも分かっている。それでもこの方法しかないのだから、神様はそれを許してくれるはず。むしろ、レイプしようとする男たちへの天罰なのだ。彼女はこのように、罪の意識と開き直りを逡巡しながら、それを支えてくれるセルビーに(一方的に)依存する。セルビー自身の裏切りをも知りながら、それでもハードな人生を生き抜くために、拠り所がなければ生きていけない。彼女はほとんどの場面で酒に酩酊し、タバコをふかしながら四文字言葉を連発する。自身の痛みを薄れさせるためになんでもしてしまう。建設的な生活をしようと思い立っても、彼女を受け入れてくれる環境や職場はない。すべての人が彼女を侮蔑し、嘲笑し、体のみを求められる。友達もほとんどおらず、家もないし家族からも捨てられた。これほど繋がりのない状態で、果たして「ちゃんとしろ、建設的な生活をしろ」と言えるのだろうか。愛するものに裏切られたまま処刑された彼女にとって、この世界で生きることはなんだったのか。子供の頃は女優になりたかった、誰かがスカウトしてくれるんだと思っていたという「ありがちな」夢を持っていた。その後の人生はありがちな人生ではなかった。ほとんどの希望は叶わず、彼女もまた半ば自覚しながら自ら破滅的な選択肢を選んだ。結果としてとった選択肢は許されるものではない。しかし、ほとんどの人間は彼女に共感できてしまうだろう。自分も含め、それほど人間が強くないことを知っているからだ。アイヒマン実験ではないが、置かれた環境によりいくらでも人間は他者を傷つけることに慣れてしまう。ゲーム(人生)のルール自体を変えようという思考が閉ざされてしまう。現に俺の思考も今の環境でしかもたらせないものはあるだろう。となると、今ここの思考から出発するしかない。

自分を律するのは難しい。でも人生は自分で設計しなければならない。