「社会をつくる自由」を読む。

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー (ちくま新書)

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー (ちくま新書)

前々から社会をいかに形成していくかとか、リバタニアリズムとか興味あったので読んでみた。言いたいことはわかるんだけど、語り口がアレすぎて残念な出来に。アメリカを始めとするゲーテッド・コミュニティという一定の閉じた空間(実はかなり開かれてるけど)の中で行われる自治的な営みを見ていくと、あらら、共有スペースの多さとか交流の様子が実は日本の分譲マンションと内容かわらなくね?と気づき、日本人も「仲良し」の枠だけで通俗的な自由を謳歌するだけの社会を構成するんじゃなくて、社会の仕組みを作り直していく自由を行使していこうぜ、というような内容。なんだけど、なんか社会に迎合できない鬱屈した著者のルサンチマンがそこかしこに溢れてて、読んでいて辟易するんだなこれが。一応、あとがきではそういうことに触れていて、でも俺は変に群れるよりも孤独を愛するんだみたいなことを書いているんだけど、なんか寒々しい。

以下、ゲーテッド・コミュニティを批判するマスコミへの攻撃。
「彼らの、「ゲーテッド・コミュニティがケシカラン」という主張は、その典型たるオートロックの完備した、あらゆる分譲マンションを否定し、法令によってオートロックを含むあらゆる物理的障壁を全て禁ずることまで覚悟しているのだろうか。真にそれを望むならば、ゲートの創設を違法行為にするように運動すればよいのだ。」ってマスコミがそんな気概あるわけないじゃん。というかそれはもう既に運動家のすることであって、マスコミのすることじゃないと思うんだが。全編にわたってこういう極端な物言いで自分の反対意見にクサしていくのが読み応えを悪くする。居酒屋で隣にいた偏屈頑固オヤジに人生説教されてるような気分になる。そりゃマスコミの無責任な物言いももちろんあるとは思うけど、どっこいどっこいに見えるぞ。少なくとも、社会を前向きに構成していこうとする気骨は感じない。

ただ、懐かしいものをやらたに保護しありがたる態度を「愁毒」と呼んでいるのは面白かった。自覚症状も多少あるし、この毒が回った人が周囲に多い気がする。ただ、それを批判する当の著者自身が、「「コミュニティ論」を唱えるくらいなら、先祖代々からの因習を受け入れていく方がマシではないか、と思っている」との記述には腰を抜かしそうになる。あんたの社会をつくる自由はどこへ?