為末大「「遊ぶ」が勝ち」を読む。

為末氏はTwitterで毎日3〜5個くらいの投稿で自分のスポーツ感や社会感をまとめてつぶやいていて、それが面白くてずっとフォローしてた。
いつか単著を読んでみたいなと思って本書を借りてきた。やはり面白い。現役時代にテレビ出演してた時は確か株か何かについて語っていたような記憶があるのだが、経済だけでなく、偏見や同僚圧力に負けることなく、本当に社会全体について真摯に思考した結果が文章に刻まれているようで面白い。

本書は、ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を下敷きに(実はこの本自体、俺が学生の頃から読みたい本リストに上がってるんだよな…未だに読んでないけど)、スポーツや芸術や、その他の創造活動がいかに「遊び」の範囲から出ているか、を著者自身のアスリートとしての体験を交えてまとめた一冊。

本書の中でも触れられているが、日本のアスリートはコーチが頭でアスリート自信はただコーチの練習メニューをこなす機械のように作用することが美徳とされているような節は常々感じていて(そのためなら体罰も辞さない、いわゆる体育会文化)、すごく嫌な精神だと思っていたのだけど、為末氏のようなフラットな考えに触れると安心する。スポーツジャーナリズムも、選手に予定調和のことしか言わせようとしない。例えばひとりの人間として政治的なことを口にしたりすることを阻む空気が出来上がっている。
そして、そういう選手は為末氏の言う「スランプにはまりやすい選手」の特徴なんじゃないかと思う。それは、体感の量が少ないこと。「気持ちいい・よくない」の判断を外部に預けてしまっており、自分の身体を通して得られる反応に耳を傾けることができない。「選手にとって何より大切なこと。「それは、気持ちが良かった時の感覚」をその人の中でちゃんと記憶できていること」なのだという。
「気持ちが良かった時の感覚」と言えば、本書で「zone」についての言及があるのだが、俺自身音楽に関してはアスリートの言う「zone」の境地にたてればなぁと思っているところもあり、興味深い。ちなみに、漫画作品でこの「zone」の境地を抉り出した傑作は、曽田正人氏の「昴」だと思ってる。後はスラムダンクのラストシーンとかか。本書で「寝入る間際に似ているかもしれない」と表現していたのは面白かった。「今この瞬間に寝ようと思っても、人は意思によって寝ることはできない。ただ、結果として「寝ていた」ということでしかない」zoneの境地はこのように、過ぎてから気がつくような超集中状態だという。
また、聴覚障害者が、「Twitterで初めてうるさいという感覚を学んだ」という話も面白かった。ヘレン・ケラーが、サリバン先生に水に手を浸してから「water」と手に書いて覚えた話みたいだ。
アスリートは「感覚センサーの集積物」だという。競技によってその磨かれたセンサーの部位は異なるだろうが、為末氏が掲げる、「ボディ・マイスター」のような人間が社会に何か影響を与えていけるようになればいいなと思う。アスリートの引退後の人生は解説者やレポーターやコーチだけではない。社会全体にアクションを起こせるような、自分で思考するアスリートが日本にも増えて欲しいと思う。