パコ・ロカ「皺」を読む。

皺 (ShoPro Books)

皺 (ShoPro Books)

これはすごい面白い!人生の締めくくり方について本気で悩みたくなる一冊。最初は映画の「最高の人生の見つけ方」っぽい老人たちの人生を見つめ直す心あたたまるお話しなのかと思ったけど、全然違う。記憶が少しずつ薄れ、それまで出来ていた日常的な行動が少しずつボタンをかけちがうようにできなくなっていく主人公を始め、老人ホームを舞台に「老い」という未知で恐ろしいものを残酷に描き出している。著者のパコ・ロカという人はスペインでエロ漫画とかイラストレーターとかしていた人らしく、この作品が第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞なんてものを受賞して注目を浴びることになったそうだ。
まず、最初のシーンに度肝を抜かれた。銀行の支店長であろう落ち着いた雰囲気の男が若い夫婦に融資について話をするシーンから始まるが、急に夫婦の夫が怒り出す。パッと風景が変わり、実は老いた元銀行員の男エミリオが息子夫婦に対して話しており、息子からの「銀行を辞めて何年にもなるだろう」と怒られている場面だとわかる。この冒頭だけでこの漫画は絶対面白いと思った。その後、男の痴呆に耐え切れなくなった息子夫婦に連れられて老人ホームに行かされ、そこで様々な形のアルツハイマー患者の世界に接することになる。
そこに描かれる患者たちの世界が冒頭のシーン通り見せ方がうまくて、「ああ、この人の目からは世界がこのように見えてるんだな」というリアリティがありありと伝わるのだ。常に旅行中の列車の席についてるつもりの女。相手の言葉をオウム返しに発することしか出来ない男。ずっと昔に陸上のメダルを取った栄誉を見境なく誰でも何度でも話す男。少しずつ人間として培ってきた記憶や分別が削ぎ落とされ、社会性が乏しくなっていく。主人公のエミリオのように社会的な地位があり明晰な頭脳を持っていたであろう人間も、その流れに抗うことが出来ない。スーツの上にセーターを着るなど服の着方がおかしくなり、スプーンとナイフが見分けられなくなり、本を読んでも頭に入ってこなくなり、物の名前がわからなくなって全ての身の回りのものに名札をつけたり、ついには同室の男の顔の見分けすらつかなくなっていく。それを、時にエミリオ自身の視点から描くことで読者にその感覚をシンクロさせているのだ。実に恐ろしい。エミリオは出来ないことが増えていく自分など認めたくない。認めたくないという自分はいるのに、抗えない病の力に取り込まれていく。特に秀逸なのは人の顔が判別できない場面で、話している相手の顔が突然真っ白になったりのっぺらぼうになったりする。こういう見せ方が憎らしい位うまくて恐ろしい。こうして、姥捨て山のような老人ホームで、愛する家族とも分断され、食べるか寝るか、もしくは赤ちゃんを相手にするようなレクリエーションしかない生活の中で少しずつ死んでいくのだ。過去の栄光も財産も栄養も関係なく、平等に動物として死んでいく。
自分だって、老いていくことから抗えない。思考能力が落ちない内に最後を迎える人というのがどれだけ限られているかというのがホントに実感できた。去年に祖母を亡くしたが、祖母は晩年どのような世界を体験していたのだろうか。