2日前かな?大宮の葱坊主行った。まずかった。
なんでだろう。以前は豚骨頼んですごいうまかった覚えがあるんだけど、かなり好みが変わってきたと言わざるを得ないな。もう麺が受け付けない。なんだろう、あのチャルメラみたいな舌触りの麺。スープは薄いし。具は割りと面白いんだけど、とても麺とマッチしない。大体麺を見れば好き嫌いが言えそうになってきた。昔は九州の極細麺大好きだったけど、今は太く、もっちりしてないと好きくない。二郎の影響が大きいのかなー。以前嫌いだった大勝軒系が好きになってるのもこういうことなんだろうな。

赤灯えれじい(15) <完> (ヤンマガKCスペシャル)

赤灯えれじい(15) <完> (ヤンマガKCスペシャル)

チーコに恋したわ完全に。
連載してる時からたまに読んでたけど、まとめて読んでみると本当に面白いな。サトシに共感しながら読めるし、とにかくチーコにベタぼれした。サトシが憎らしくなってくるくらいチーコがかわいい。
マンガとかフィクションのキャラに萌えることって今まであんまりなかったんだけど、チーコに対しては完全に恋だな。二次元のキャラに対する感情が自分の中でとても自然に生じてるのが不思議だ。斉藤環さんが以前「これが萌えというものか、と理解できた」となんかのキャラを指して言ってた気がするんだけど、正にそう。もっと簡単に言えば、アニメやマンガのキャラで抜けない人だと思ってたんだけど、チーコなら脳内のイメージがかなり潤沢なので抜けそうな気がする。エヴァとか、ハルヒとかでも抜けないのにな。チーコを消費するってのは恐らく母性を感じてるからだろう。この人に叱られたい、と感じる。彼女の行動原理はほとんど理屈を通過せず、いいものとダメなものをこれまでの経験則に基づいてばっさり分ける。そんな強い女性をこそ征服したいというマッチョイズムよりは、ヘタレな自分をその思い切りの良い力で修正し包み込んで欲しいという感情という方が近い。もちろん、チーコの弱さも作品内では描かれている。次第に二人とも共依存とも呼べるような関係になっていく。でも、現実的でも俺は自分よりキャパがないなと感じる女性を好きになれない。弱い点なんて隠そうとしていて欲しい。
そして、そういった点でやはり共感させる読み方は強いなーと思わせる。今トマス・ピンチョンの「スロー・ラーナー」読んでるけど、共感しながら読むテキストでは全くない。面白いけど。続きが読みたくてしょうがない、揺さぶられるような感覚が(いまんとこ)ない。過去、俺を萌えさせたキャラと言えば最終兵器彼女のちせと電波男の大阪くらいだと思う。チーコは彼女たちより愛おしい。評論家の方々に言わせれば都合のいいキャラ消費なのだろう。現実に感じる痛みを回避しながら好きになっている。現実のチーコみたいな子は自分のような人間をかなり高い確率で軽蔑するだろうし、俺だって大変だろう、しょっちゅう周りに喧嘩ふっかける子なんて。
でも、この回路を遮断しながら人間って生きていけないんだろうとも思う、やっぱり。恋空見て胸が苦しくなる女子高生と共感のフックが違うだけで、構造は一緒なんだろう。しかし、この構造に自覚的であるという意識を免罪符にして、今後もチーコに萌え続けたいと思う。
作品自体は結構凡庸なもんだろう。ほとんど主役の二人にカメラが拠った作品で、それ以外のエピソードはない。ゆっくり時間を追って、その関係における機微を淡々と描きとるような作品だ。二人の貧乏暮らしもリアルで、マンガ評論で有名な紙屋研究所のレビューも面白かった。ちょっと似てるなと思ったのはシガテラ。荻野が、南雲さんが好きすぎてやばい、死んでもいいと思う描写が、サトシが「チーコがおらんようになったらほんまにやばいわ…」と本人に言ってしまう部分が読んでてかぶさってきた。相手に追いつこうと、一緒にいて恥ずかしくない男になろうと努力するし、それ以外では生きるエネルギーにならない。そして、両作品とも結果は正反対だけれども、ヘタレだけども「普通の男」になって終わる。書いてて思い出したけど、木尾四目の「四年生」にあった「負い目」という表現に近いのかも。仕事が落ち着くまでは結婚なんて考えられないという主人公に、お前はずれてる、と父親は言う。一人だと仕事にも精が出ない。負い目がない(結婚しないと)と、頑張れない。(みたいなやりとりだったはず)
この手の構造の物語が俺を”癒す”のは、やはりこの辺に自分の弱さがあるからなんだろう。この不遇感、劣等感を飼いならして生きていくしかないのだろうが、たまに共感できる人やキャラを消費しないと、とても現実を見据えられない。